本殿棟札によると、天長元年空海上人が浄光寺創設の折に勧請したと記されている。
正平年中、佐々木判官秀詮がこの地に浄光寺城を築き、その後天正7年、織田信長が伊丹城主荒木村重を攻略した際、城と共に城の守護神である当社も焼失した。のちの元禄13年、村人達が合議の上代官の助力を得て社殿を造営。現在の本殿並びに北の鳥居は当時のもので、300年を経る。昭和3年、昭和の御大典を記念して拝殿、弊殿、本殿の覆殿を造営、昭和46年には明治百年を記念して全社殿の大屋根を改修。平成21年には、地盤沈下などによる社殿の歪みを修復するため基礎改修工事、令和2年には令和御大典を記念し銅板葺きをチタン板で葺き替える大屋根改修工事が行われ現在に至る。末社には稲荷社他、天満宮、愛宕大神、弁財天を祀る。また、境内には幼稚園が併設され、樹木は市の保護樹林に指定されている。
○天照大御神(あまてらすおおみかみ)
皆さまご存知の通り皇祖神(皇室の先祖神)であり、また太陽神ともいわれている。日本には八百万(大変多く)の神々がおられるが、その中心の神であり、世の中に太陽の恵みと秩序をもたらす女神。この神を主祭神としてお祀りする神社は、「神明社」、「神明神社」「天祖神社」といったり、当社と同じく「皇大神社」といったりして、全国に約五千社ある。「元伊勢」とされる由緒が神宮より古い神社も存在するが、神職をはじめ我々日本人が本宗(ほんそう)・総氏神と仰ぐのが伊勢内宮に鎮まる天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)である。当社授与所で神宮大麻(お伊勢さんのおふだ)と氏神符(皇大神社のおふだ)どちらも受けらる。当社資料によると別称:大日孁尊(おおひるめのみこと) 奉斎とある。
○誉田別尊(ほむたわけのみこと)
第十五代応神天皇の国風諡号で、大分県宇佐市鎮座の宇佐八幡宮の御祭神でもある。誉田別命は文学、織物、裁縫、鍛冶、造船など、積極的に外国の技術を取り入れられ、日本の産業を大きく発展させた。神名は天皇がお生まれになった時、その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来する。清和源氏が氏神として祀るなど、全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。また、奈良の大仏建立の折など古く時代毎に信仰が高まっており、神仏習合の世には菩薩として崇められた対象でもある。平安・鎌倉と武士による手厚い信仰の末、「戦の勝利=災厄排除」と捉えられるようになり、今では厄除けの神として崇められている。
当社資料によると、皇大神社は大日孁尊(天照大御神の別称)奉斎の神社として地域の氏子らの手厚い崇敬を受け、寄進、増改築されてきた。その最中、(恐らくは王子八幡神社の御祭神ではないかと思われるが)八幡神を合祀し、配祀神として祀られたと推察される。詳細は新たな文献を見つけ次第、御案内申し上げます。